私の被災体験

これから私が水害を経験した時の話を書き留めておきます。また、現在は、各住所には、別の方が住んでおられます。


私は、昭和51年に水害にあっています(昭和51年(1976年)9月8日~9月14日 台風第17号)。この時は台風17号といわゆる秋雨前線の影響で水害が起きています(こういった説明は、日本気象協会の人が分かりやすくしてくれていますので、そちらのページがわかりやすいかと思います。また、台風だけの被害というよりは、このように複合して水害が起きる場合があります。その点にも留意が必要かと思います)。


私は、岐阜県羽島市竹鼻町下町二丁目の貸家で生まれました。

そして、岐阜県羽島市竹鼻町飯柄地区の田の中の住宅地の新築建てへ引っ越しました。この飯柄という地名は輪中の地図にも残っています。また、この輪中を作って洪水から土地を守るということは平安時代から行われてきたようです。

輪中の仕組みから考えると、この飯柄(いいがら)という地名の場所には、先祖代々水を防ぐために高いところに土地を確保し、そこに人が集落を作り、住んでいた地域ということになります。

私の父親は、昭和20(1945)年の生まれです。その時の土地の価格は概ね同世帯年収のコミュニティを生み出します。近所には、同年代の子どもさんや同じくらいの父母が住んでいました。

その引っ越してすぐの時に水害にあいました。

その時、父親は、岐阜県岐阜市にあったタイヤで有名なブリジストンの関連会社のエバーソフトという寝具関係のメーカーに勤務していました。

強烈な豪雨が何日も続きます。

母親が泣き叫びそうになり、父親の勤務先へ電話をかけるのですが、父親には何を言っているのかわかりません。なぜなら、外へ出ることのない仕事をしていれば、外の様子などわからないからです。

でも、水はどんどんとその水位を上げてきます。

いつしか、前にあった田との境がなくなります。それでも水は溜まります。

ようやく警報をきいた父が岐阜バスで帰宅します。

ところが、岐阜バスのバス停から家までの境目が全くわからなくなっているのです。

父親は、スーツのズボンをたくし上げ、革靴を手に持ってようやく家にたどり着きました。

そしてシャワーを浴び、事の大きさに気づきます。

まず、車を上に上げなければなりません。

カッパに着替えて、ジャッキで車を上げ、ブロックを車の四輪の下に積み上げます。そして車の高さをあげるのです。

しかし、それでも水は上がってきます。

次は、家の中までやってきます。

そこで今度は畳をあげます。

そして、二階へ運ぶように叫びます。

新築でローンもまだ未払いの家がそんな風になっては、という気持ちが強かったのでしょう。

そして、私たちは、岐阜県羽島市竹鼻町下町二丁目からの引っ越し組であり、その地においては、いわばよそ者であり、避難先などすぐに分かるはずもなく、ただただ、自分の家と家族を守るのに必死だったのです。朝方は、洪水注意報でしたので、出勤します。その後、順に警報になり、洪水特別警報に変化します。そして現在で言うところの避難指示(緊急)になりました(ここは過去の水害(災害)発生状況とともに変更になっています。下記にまとめてみました。こうはなっていますが、個人的には、水が来たら、まず、逃げるようにとは言って回っています(これも一概に言うのは難しい問題です。それぞれの避難に対する考え方が異なるということと、それぞれぞれの事情が異なるということなどを考慮に入れる必要があろうかと思います。)。自分で避難したら良いか判断できない人たち(つまり、災害弱者と呼ばれる人たち)への対応が必須であるとは思っています。自分の意思で決めることのできない人たちへの対応が必要になってくるものと思われます。)。その地域の人たちはみんな新興住宅地に移り住んできた人たちばかりです。買ったばかりの土地と住宅を手放すわけもなく、話し合いのもと、留まることにしたのです。

そして、2階で過ごすこと数日(ほぼ1週間以上は湛水していました。どうして、明確に記憶にあるか、それは、2階でテレビ(帯番組)を観ていたからです。電気の復旧は早かったんですが、水が1番遅かったです。車は、ブロックで上へあげても高さはそれほどでもありませんので、廃車処分になりました(これは加入保険によって賄うことになります)。一階部分は、水に浸かったものはいくら乾かしてもダメです。家具やソファーなども廃棄処分です。軽トラックで学校のグランドまで運びました。台所、トイレなどの水まわり、床下は、消毒の対象です。家屋全体としては、昔の大工さんが建てた日本家屋なので、土台部分はしっかりしていましたが、半分は、建売住宅同然でしたので、金額なりの造りです。)。農家の皆さんは、米や野菜も全部ダメです。また、このような時には、いろんな業者が来ます。耐震診断します、シロアリ駆除だとか、浄化槽点検だとか、消化器売りますなど、家を購入したばかりの人たちなので、隣の家の人にはやっていただきました。というのが流行り言葉になります。

ようやく雨が止み、晴れ間が見える頃になって、外へは海水パンツを履いて出ました。それでも海水パンツを水は濡らしました。

汚水や汚泥の中、便器が流れてきます。

男たちは、水はけの良い大通りまで親戚から借りたボートを牽(ひ)いて買い出しに出ました。筏(いかだ)を作る人もいました。

そして、パンやカップ麺などできるだけ日持ちのするものを買って帰ります。その時の水は思った以上に重いです。ましてや、足の利きが悪くなる汚泥の中では、思った以上に疲れが出ます。皆が若いからこそ、できたのだと思います。

そうして過ごしました。

ようやく市から救命ボートが来て、救援物資をもらいました。

が、全部が腐っていて、とても食べられたものじゃありませんでした。

学校が始まりました。

先生が水がどれだけ浸かったかを聞いてきなさいと言います。

大黒柱を基準にすればいいのか、どこを基準にすればいいのか、わかりませんでした。しかし、水は真新しい木材にくっきりと跡を残します。そして、水に浸かった木材は、水を吸い上げます。周りの人とも話して、もっとひどい人のことを考えて、床下浸水で提出しました。

あとで聞けば、損害賠償機構なるところから見舞金が出るとのことでした。それで、鉛筆1ダースとノート2冊をもらいました。

この時の経験から一生懸命水害の勉強をしました。

 付け加えると、この時、報道のヘリコプターの音を聞いた経験もありませんし、取材を受けた記憶もありません。たぶんに、岐阜県大垣市安八郡の方が長良川に近いからでしょう。そして、この時の長良川の破堤は向こう岸になる岐阜県安八郡墨俣町(現在は、岐阜県大垣市に編入しています)でも被害は出ています。しかしながら、水は高いところから低い場所へ流れ込みます。低い場所の方がその整備状況は緩く、浸水はひどい場合も考えられます(岐阜県大垣市のいたるところにはその時の状況を表す看板が立ててありますが、よほど興味のあるもの以外は見えないほどです。)。

防波堤を高くすればするほど、その破堤した時の水流の強さは増します。ですので、結果的にみれば、行政の対応が遅きに失するということも考えられなくないと思います。また、上流のことも考えなくてはなりません。依然として記録に残されてれている、もしくは資料(紙ベースのものは、中部地方河川局や中部地方整備局河川部に行けば、出してくれます。取りまとめ方に偏りがあるのではと思う箇所もあるにはあります。)には、長良川安八水害と記載されているものをみると、個人的には、腹正しく感じます。地質学的に見ても、濃尾平野は、(愛知県の)猿投山付近ではほとんど堆積層は存在していないが、西に行くほど堆積層はその厚さを増し、(岐阜県・三重県の)養老山脈の西側を区切る養老断層では2,000mに達していることがわかる。つまり、濃尾平野は西へ傾きながら発達してきたのである。という記述があります(『濃尾大震災の教訓』p100)。このことからも、そのほぼ中間に位置する場所は水が流れ、たまりやすい地形であるということが言えます。そのような危険区域に住んでる方が悪いと建築家の方に言われたこともありますが、それは土地計画論者の方の発想です。もともと、住んで生活している方には失礼な話であると思います。もちろん、自分の意思で転居できる方は、転居することも視野に入れたほうが良いのかもしれません。しかしながら、自分たちの意思で、その土地に住むと決めている、あるいは家族の世話や介護の問題などからその土地を手放すことができない人たちには、失礼な話だと思います。

 このように広範囲に本来なら取材対象となるべくところを多くの報道関係者は報道する必要があるのに、いつまで経ってもその一片しか報道の対象にしないのは、家族や親族、友人の安否を気遣うための通信トラフィックを起こします。救護ヘリコプターなどの邪魔にもなります。また、安否確認の妨げにもなります。正確な震災・被災状況は、明るくなってからでないと確認できません。よって、第一報のみで動き出すのは、有事を拡大化、もしくは矮小化するだけで無力であり、無意味です。それが誤報を生み出します。

ですから、いつまで経っても東海・恵南豪雨災害が都市型水害として位置付けられてしまっているのは、地下街に流れ込む水流のみの映像を見せるからでしょう。水害は、河川水系で被害をみるのが良いものと思います。東海・恵南豪雨災害は、庄内川・矢作川水系で被害が出ていますので、長野県にも被害が及んでいます。これは、論文でもあるのですが、愛知県のみを対象としているのならば、東海豪雨災害でも良いと思います。ただし、東海豪雨という呼称は正式ではありません。平成12(2000)年9月11日からの大雨による記録として残っています。被害と考えるのであれば、岐阜県では、恵南豪雨災害になります。また、台風という観点から被害を見るのであれば、理科年表(国立天文台)が最もわかりやすいかと思います。また、映像で残されているものもあります。さらには、気象庁|災害をもたらした気象事例という箇所をみれば、日本の大規模災害というと阪神・淡路大震災や東北の震災のような地震災害が頭に残っているかと思いますが、豪雨災害や土砂災害が多いことがわかるかと思います。山と河川はともにあります。雨が長く降ります。すると、山の中の水量が増えます。同時に近傍している川へ水が逃げます(ですので、濁ります)。河川の水も増量しています。そして氾濫します。水が逃げる上にある道路や鉄橋は崩れ、穴があいたり改修が必要になったりします。また、場所によっては、山崩れ(詳細は、砂防ー国土交通省)が起きます。被害が出れば、水害となります。これを理解・検証する際には、河川水系で事象を検証する必要があります。水は、自分のいる地点のみならず、上流から下流、本流、支流、そして海や湾へ流れて出ていくことを確認してください。道路や鉄橋があるから、いきなり崩れるのではありません。山の近くに道路や鉄橋があるから、いきなり山が崩れるわけではありません。ですので、木曽川の上流の長野県の大桑村で土砂崩れが起きて、水が濁れば、愛知県の犬山市や一宮市でも鮎が取れないなどの影響が出ます。上流から下流へ流れてくるので、時間差的に濁るのは当然のことなのです。そして、長良川水系では、公害の歴史では、神尾鉱山とイタイイタイ病の関係もあります。戦前・戦後にかけて、富山県の一特殊地域で風土病と捉えられていたイタイイタイ病に対して、一貫して原因究明に取り組んでいたのが、富山県の一医師、萩原昇医師であり、神岡鉱業所が排出しているカドミウムがイタイイタイ病の原因物質であるという最終結果に漕ぎつけています。しかしながら、昭和51年時の長良川決壊時における建設省を相手取った水害裁判では、岐阜地裁は、安八訴訟は河川管理の過失を認めましたが、墨俣訴訟では認めないと言ったねじれた判決を出します。最終的な名古屋高裁での判決は、どちらも棄却すると言った不本意な帰着となりました(岐阜県史 通史編 続・現代より)。

時の宰相(現在の麻生財務大臣(2018.04.13現在))も名古屋駅前での街頭演説時にそのような発言をして、他の地域住民から反発を食らったことがあります。これが報道の怖さです。そして、その映像には位置情報(ジオタグ)が取り付けられているはずです。今後は、そのようなことのないよう、お願いしたく考えます。

 日本における災害報道及び気象情報の報道の限界は、いつまでも、平面(二次元)の地図を用いることにあります。正確な場所が特定できかねます。そして忘れます。これからの人たちには、こう言った偏狭報道に迷わず、正確な情報を得る力を持って欲しいと考えます。

東日本大震災もFukushima Nuclear Power Plantがあるために、太平洋側のみに焦点があたりがちですが、日本海側の岩手県(これは友人に訊きました。)でも復興半ばです。福島県の友人にも聞きましたが、復興も所々だそうです。

しかしながら、石井正先生は、その著書「東日本大震災石巻災害医療の全記録」の中でこう書かれています。

メディアは決して、救護活動の妨げとなる煩わしいだけの存在ではない。この震災で僕は、報道機関も災害時に”協働”できる仲間になりうることを初めて認識した。

下記に災害情報の取りまとめをしておきます。参考になる箇所は、参考にされると良いと思います。基本的に、気象庁から出される情報を先行、次いで、中央防災会議などのワーキンググループからなる内閣府の考え方を知っておいて、過去の法整備状況を抑えるのがわかりやすいかと思います。今回、西日本の水害を激甚災害指定にするか否かは、過去の法整備状況を踏まえて早く行った方がいいとは思います。7/24 激甚災害指定されました。この激甚災害指定制度というのは、災害救助法の一部で、次のようになります。激甚災害制度は、地方財政の負担を緩和し、又は被災者に対する特別の助成を行うことが特に必要と認められる災害が発生した場合に、当該災害を激甚災害として指定し、併せて当該災害に対して適用すべき災害復旧事業等にかかる国庫補助の特別措置等を指定するものである。指定については、「激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律」に基づく政令で指定することとなるが、政令の制定に当たっては、あらかじめ中央防災会議の意見を聴くこととされている。


よって、すぐに激甚災害指定制度を行使するわけにはいかないのです。災害救助法は、明治期における罹災救助基金法から定まっています。ただし、最終的な被害総額は、災害関連死と呼ばれる死(に認定される方)や遺族の方を含めないと発表されませんし、できません。また、農産物の被害額なども集計できません(これらを集計しないと激甚災害指定を受けることができません。)。(この法改正の背景には次のような経緯があります。激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律 (昭和37年9月6日法律第150号 ))。個人の感情とは別の問題です。ですので、早々に物事を片付けるような報道姿勢には疑問を持ちます。激甚災害指定に関しても内閣府の防災のページに集約されています。例えば、激甚災害指定基準などです。また、次のようなデータベースもあります。日本損害保険協会の過去の風水害の被害状況と支払保険金というものです。


警報とは、重大な災害が起こるおそれのあるときに警戒を呼びかけて行う予報です。また、注意報は災害が起こるおそれのあるときに注意を呼びかけて行う予報です。(ここは下記にあるように気象庁の区分です。)
警報・注意報発表基準一覧表

一方で、避難勧告等のガイドラインというのは、内閣府で改定がされています。

避難勧告等に関するガイドラインの改定(平成28年度)

また、法整備と沿革については、下記のとおりです。伊勢湾台風災害が契機となって災害対策基本法が成立したのですが、それ以前より、災害救助法が成立しています(元になるものは、明治期における罹災救助基金法になります)。
災害救助法 ( 昭和22年10月18日法律第118号 ) 沿革

災害対策基本法 (昭和36年11月15日法律第223号) 沿革

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